昭和47年12月25日 朝の御理解
御神訓 一、
「神は声もなし 形も見えず 疑えば限りなし 恐るべし 疑いを去れよ。」
神様がおられるとか、神様はござらんとか所謂有神論、無神論まちまちであります。信心をさせて頂いて、ほんとに神様のおかげをおかげと感じさてもらう、心からそのことを感じさせてもらう。そこから信心の喜び、有り難いという心が頂けてくる。その有り難い心で、いよいよ神様の実在、神様の生き生きとした働きを頂き止めていくことがでける。それが信心である。
しかもその有り難いという心は、いやがうえにも募っていく。そういう有り難いという世界に住まわせて頂くと言う事が、信心生活させて頂く者の、特別にま許された世界だと思います。神様を疑えば限りがない、と同時に信ずればまた限りがない。果してどちらが幸せであろうか。人間の幸福と言う事は。私はいつも思うのですけれども、ま朝の御祈念を奉仕させて貰います前に、三十分間控えで御祈念の時間を待たせて頂く。その三十分間の間にしみじみ思う事です。
それはほんとに自分の様な者だと言う事。自分の様な者、ね、それにも拘らず頂いておるおかげというものは、ほんとに限りがないほど、神様にお願いをするそしておかげを頂く。それはもうそこにおかげと言うものがコロッとしておるのですから、そのおかげのところ、例えて申しますと、病気でおかげを頂いたと、まあ金銭のお繰り合わせを頂いた、お願いをしておかげを受けるというのは、それだけの事。
けれども信心によって、愈々自分が分かると言う事、高橋正雄先生のお言葉じゃないですけども、見る事見る事自分を見る事と、ね、自分を愈々掘り下げてみるというか、自分と言うものが分かれば分かるほど、なんとお粗末な自分であろうかと言う事である。そういうお粗末な自分である、お粗末御無礼者である私にも拘らず、神様はこの様なおかげを下さる、なんと勿体無い事であろうか、有り難い事であろうかという、有り難いと言う事よりも、勿体無いと言う事が非常に強い。
それはこの上に上がっておるおかげというものを頂く、是だけの事けども是をずっと掘り下げていくと下のほうから、有り難いという勿体無いというものが、大きくなってくるわけじゃないでしょうかね。今朝も私居間から控えまでこう歩いてくる道々、相当曲がってこう、廊下を伝って来る訳ですけれども、ほんとにこうやってね、杖にも縋らず歩かせて頂いておると言う事の有り難さ。今朝はその事をしみじみ感じた。どうでしょうかね、皆さんもやはり皆、歩いて合楽にお参りをしておられます。
勿論車に乗ったり色々けれども矢張り、歩いて見えておられる、と言う事と同じ事です。その歩いてここまでこらせて頂いたと言う事がです、ほんとに有り難い。ほんとにこの頂いている足を、なぜさすりしたいほどに有り難い。歩かれておると言う事が有り難い。それを当たり前と思う人、有り難いと思う人その有り難いと思うても、ね、十だけ有り難いと思う人、ね、百も千もの思いで有り難いなぁと思う人。
信心というのは、ね、ただいうならば歩かせて頂いておると言う事んだけんにでも、そのような有り難いものが感じれれるようになる稽古なんです。信心は極言すれば有難うなるけいこだと。なんと有り難い事じゃなぁ、勿体無い事じゃなぁという生涯。しかもそれは限りなく、その有り難いという心に又いやが上に、有り難くならして貰わなければおられないほどしの、おかげが受ける。廊下を伝いながら歩かして頂いておる、歩いて歩かせて頂いておるというその事実です。
歩いておるというその事実をね、是はそれを信ずると言う事は誰でもでけます。歩いてきたということを信ずる。まあ理屈ぽくなりますけれども、ね、生きておると言う事を信ずる。現在今生きておるんだと私は。お生かしのおかげを頂いておるんだと。それを疑うものはありますまい。いや自分が死んどるとじゃなかろうか、なんて思うものはないでしょう。生きておるしかも歩いておる、ね、その事実をね直視したときにそこにね、神様の働きを感ずる。
そんな思いで控えに入らせて貰って、座らせて頂いたとたんに頂いた事が、奥の泉水のある所、大きな鯉が沢山泳いである。その上にね煙る様なお湿りがっとこう、あっておると言う様な情景。もういやが上にもしみじみと、有り難い情景である。大きな鯉が泉水に一杯泳いでおる、その上にお湿りがあっておる。煙る様なお湿り一幅の水墨画を見るような感じ。はぁほんとに私が廊下を伝うて歩いてくる道々、まなんと有り難い事であろうか、歩かせて頂いておるという。
その事実を直視したとき、足が動いておるという事実を直視したときに、有り難いなぁと思う。そういう有り難いというものが次の働きの、所謂有り難いなぁと言う静、静かな心その心が次の動動かして貰う。さあ今日もこの健康のおかげを持って、人の助かる事のために、本気で御用させて頂くぞ、という心が躍動してくる。生き生きとねそういう生活を繰りかえさせて頂く事は、丁度泉水の上に、泉水一杯の鯉が泳いでおるその上にまたお湿りがあっておる様なものではなかろうか。
勿論お湿りと言う事をおかげと見る、泉水の水をおかげと見る。鯉を徳とみる、ね、もう限りないいやが上にも御神徳の積み重ねていけれる、所謂信心の成長と言うものがです、その有り難い有り難いが、愈々ほんとのものになっていくに従って、御神徳を積み上げていくのであり、勿論御神徳に伴う所の、所謂おかげは勿論の事。そこに信心させて頂いておる者のです生きがいというものがある。
いよいよ自分が分かる。ね、おかげはここにもう露出しておる、だけではなくてそのおかげの根とでも申しましょうか、ね、そのそこのそこからおかげを感じる事が出来る。それには自分を知ること。自分を見極めて行く事。そこには不平も無からなければ不足もない。ただあるものは勿体無いなぁ自分の様な者に、神様はかくもおかげ下さってある、勿体無いなぁて言う事だけ。有り難いというものだけ。ね。
その有り難いというものが、愈々育っていく。神様を例えば、それは形の上で神様を見るると言う事が出来なくても、自分の心の上に見る事がでける。ですから言うならば、ね、形にないものですから、疑えばまた限りがない事いやあ、あっちはもう有りがたやさんじゃん、何ちゃもう有り難い、有り難いと言うてというて、まあある人は馬鹿のように言うかもしれません。
けれども是は私自身です、成程子供のときから親の信心について、今日までおかげを頂いておりますから、その初めから有難やさんじゃなかった、ね。けれどもそのおかげがです、段々段々心の上に感じる有り難いというものや、勿体無いというのが、段々今日ここまでお育てを頂いておる。目をつぶって金光様と念じれば沸いてくるものは有り難いもの、いわゆる勿体無いものばかりである。まぁだこれからどれほど有り難いものが育っていくやら分からない。だからあながち有りがたやさんと言う事ではない。
やはり有り難い、有り難いとこういう人は非常に感受性が強い。初めから強かったんじゃなかった。信心させて頂いておるうちに所謂、ね、受け止めれるその心有り難い、実を言うたらありがたいものはこの世の中にいっぱい、今申しますように生きておるということの事実、歩かせて頂いておるというその事実をね、見て有り難いとまぁだ、有り難いものがどの位あるやら分からん。
有り難いものに浸っておうる様なもの、それを自分の心で所謂その感受する事が出来ない、キャッチする事が出来ないでおるだけの事。そしてこの世は苦の世界だ、苦の世だと言った様な頂き方。さあ働かにゃ働かにゃもう私が働かにゃ、私が頑張らにゃそして自分で働いて自分が食べておるように思うて、一生を終わって何が残るだろうか、ね。奥山今日越えて浅き夢見し、えひもせずである。昨日の朝の御理解、ね、一生がほんとに苦しい事のみであったと、そしてそれでおしまい。
あさきゆめみしえひもせず、うんというねうんという一気張り、もうそれであの世に行くばかり。何も持って行く事は出来ない。けれども目に形に見えるものは、持って行く事は出来ませんけれども、ね、魂に刻み付けられたもの、ね、魂に染みこんでおるもの、持っていけれるのはそれだけだと。魂の世界に持っていけるのは、それだけだと私は思う。この有り難いが段々育っていく、愈々限りなく有難うならせて頂く、その有り難いと言う心におかげがあると仰せられる。そのおかげを頂かせてもらう。
心に感じておるはあこの有り難いというものだけが、あの世に持っていけるんだなという思いが非常に強くなる。そこに死生の安心が得られるのです。ただ我情我欲だけを張って、ね、自分という者を見極めたこともない。自分がどのくらいなお粗末御無礼な自分であるとも考えたこともない。それは例えば、悪いことなんかをした人が、ほんとに自分がもし、魂の世界があったら、も、それこそま、どう言う所に死んだら行くだろうかという不安がおののきになってくる。
それが私は、信心させて頂いて、ただ有り難い勿体無いこの有り難いが、この勿体無いが、このまま持っていけるのは是だけだという安心と、天地ほどの違いになってくる。昨日の四時の御祈念のときでした。五つの願いを繰り返し繰り返しさせて頂く。どうぞ神様、体の丈夫を頂かせて下さい。健康のおかげを頂かせて下さい。私はもうこの御結界に奉仕をさせて頂いて、神様に喜んで頂く奉仕、御用をさせて貰うと言う事が、又人が助かると言う事が、もう何よりもの楽しみである。
ここへこうやって座らせて貰う事が、何よりも楽しみ。ですから是は八十になっても、九十になっても、いや私の生のある限りは、私はもうこんくらいで、隠居しようと言った様な事は思わないだろう。もう命のある限り、御用させて頂くだろう。ためには神様そこが痛い、そが痒いと言う様な事であっては御用がしにくい。どうぞ体の丈夫を頂かせて下さい、健康のおかげを頂かせて下さい、痛い痒いを感じんで済むほどしの健全な健康を頂かせて下さいと、こういう願いをね。
さして頂い今のそん所を、ね、お役に立ちたいから、健康なおかげを頂きたい。そんために痛かったり、痒かったりしたんじゃ御用しにくい。折角楽しゅう有難う御用さして頂くのでございますから、どうぞ愈々体の丈夫をいやが上にも頂かせて下さいとお願いした途端にですね、あのお扉の金具につかれたと思いますね。おいさみがカチッともチンとも、感じられる様なねおいさみがさぁっと、こう流れて来る様なおいさみを頂きました。どうぞ健康のおかげを頂かせて下さい。
体の丈夫を頂かせて下さい。そして神様にお喜び頂けれるような御用が、もうそれこそ、お役に立ちたい、立ちたいという一念がです、そういう体の丈夫を願うと言う事になるときに、その体の丈夫、健康のおかげを下さいと言う事はいかにも、我情我欲の様であるけれども、そうではないことが分かりますね。健康のおかげを頂かせてもらう、体の丈夫のおかげを頂かせてもろうて、ね、少しでも世の中のお役に立たせて貰わして貰う事の為に、体の丈夫を願うのである。
子孫繁盛家繁盛を願うのである。家庭の円満を願うのである。その事の為に願うのである。この御神訓の一つ前に、「神の教えも真の道も知らぬ人のあわれさ」もう神様のおかげ、神様の働きを分かれば分かるほど、感じれれば感じられるほど、ね、只今こうしてお生かしのおかげを頂いておるというその事実をふんまえて、ね、それをいや私は生きとらんとか、いや動いていないとかということはなかろう。やはり動いておるのであり、生きておるというその事実を見たとき、ね。
これを信用しない者はなかろう。それを神様のおかげだと分かる事が信心なのです。もう、だから動かす事のでけない、実証です生きておると言う事をそこに確認する。足が動いておると、歩かせて頂いておると言う事を再認識する。それが私の知恵とか私の憶測で生きておるのでもなからなければ、動いておるのでもない。神様のおかげで生かされて生きておるんだ、動かせて頂いておるんだという、この事実を信じないわけには、まいりますまい。それを神様のお働きと実感する。
成程それが実感できれるなら例えば、私が今日有り難いと思う思いをです、ほんとに信心がない人、神様をあるやらないやら分からんでおる人、真の道も知らない人をほんとに哀れさと言う言葉で、ここには表現しておられますが、ほんとに哀れだなぁと思います。信心のない人ほど、哀れなことはないそれは安気安穏の生活、例えばしておりましてもです、その人がそれこそ、人生の山路を登り越えて、そしてあさき夢みしえひもせずという、そういう、神様のご恩徳に、えひもせず。
会うこともでけづして、ただ、我情我欲で生きてきたと言うだけの人がです、うんと一気張り、あの世に行くときにです、何を持っていくであろうか、もうこのような哀れな話はない。自分の貯めあげた、造った家やら財産を持っていくわけにはいかん。心のことなど、魂のことなど考えたこともない、ね、その心とてもあるやらないやら分からんのだけれども、そこに心をね、感じる。しかもその心が歓喜に満ちておる。不平不足に満ちておる。はたしてどちらが、人間の幸せか。
人から少し馬鹿とは言われてもです、あれはもう有り難やさんだからと、例えば言われてもその有り難い、勿体無いで生きると言う事が、どの位人間の幸せな事かと。そしていよいよ今まで感じ得なかった、有り難いと言うものを感じさせて貰う。吸収して行く所の信心の、いわば道を歩かせて頂くというものがです、ね、道も知らぬ人のあわれさでは無くて、その道を知って歩かせて頂く人の、幸福がそこにです感じられる。しかも是は感じられると言う事はお道の信心では、即おかげに直結する事なのです。
言うならば人間の幸せの条件のすべてがです、是にはとものうてくるというのですから、ね。神は声もなし形も見えず、疑えば限りなし恐るべし疑いを去れよ、どういう意味でここに恐るべしと言う事を教祖は、恐るべしという言葉で、ここん所を〆ておられるだろうかと。私は今も申しました所謂人生の、いうなら終着駅が段々近づいて来たときに、ね、心に感ずるもろもろの事がです、はぁ自分は一生何をしてきたか、随分働いてもきたお金も沢山貯めてきた、立派な家も建ててきたが、それだけではたして心の中にね、有り難いと言うものとは反対に、所謂恐ろし恐るべしと言う事、ね。
この恐るべしと言う所がですんなら、信心をさして頂くのは、有り難しと言う事になる。そこの違いがです、ね、愈々の最後のときに感じられたのではもう遅いのです。恐るべしを感ずる蒲田は有り難しを感ずるか、ね、そこに私は信心の救いというものをです、見ます、感じますです。ね、しかもそういう心の状態が段々ね、有り難いというものが、段々募ってくる。
その有り難いものが募ってくるという、その有り難いと言うものにはです、生きておる人間が必要でなからなければならない、いうならば体の丈夫も、または経済の面においてもね、家庭の円満の上においても、ね、それが伴のうて来るほどしのおかげ、必要なものが必要に応じて、感じられる、頂かれるところの道を教祖様は教えておって下さるのです。ね、だから信じなさい、神様を信じなさい、神様は信ずる者を信ずると仰せられるから、というても、信じなさいと言われて信ずる。
というわけには参りません。なら是を見なさい私のおかげ頂いとる姿を見なさい、神様を信じんわけにはいかないでしょう。ここの五年前にお広間が出来たとき、二年間もかかったんですから、どうしよるやら分からない状態を、例えばここを行き来をする人たちは、見ておったでしょう。所が出来上がってしまったときに、ね、やっぱり神様じゃなあと、というておった人の事を聞いて。
私にお届けした人があった。成程やっぱり神様じゃなぁ例えばそれを見せてです、神様を信じさせると言う事は、ね、それは私だけは有り難いけれども、ほう成程神様じゃなぁと言う事だけでは、幸せじゃないでしょう。自分自身が感じ、自分自身が頂いていく道に入らなければ、ね。そこでです、ね、愈々ね信心のまいうなら、入り口と思われる教えを頂くと言う事。
しかもその教えを行じさせて頂くと言う事、そこから私どもの生活が変えられてくる。心のいわゆる物の見方、考え方が変わってくる。そこから愈々成程神様成程有り難いな、という体験も生まれてくるし、昨夜の御理解にも申しましたがもうとにかく、金光様の信心は、体験の宗教だと言われておる。ね、その体験に基づいて、自分の心も愈々豊かに有り難く育っていく。
それこそああ有り難い有り難いと、いうものをあの世に持って行けれる、これなら持って行けれるぞという確信が段々でけてくる。そこに人生最大のです、有り難いと言う事は、そういう死生の安心ができるというほどしの、おかげを受けることだと私は思う。信心によって御利益を受けるということは、もうこの事が一番最高のおかげである。そこを極めていく。日々安心安らぎの生活を、愈々深めていかなければならんですね。
どうぞ。